61回 H.11.11.2

中目黒寄席小史

中目黒寄席が発足して二十年経ったとか、六十回を迎えるとかで、このところ、マスコミにも取上げられ「歴史を振り返る」を強いられる事しばしば……

今回、志ん橋さんを迎えるに当たり、「演者紹介」を書こうとすると、ここでも当寄席初期の頃の「歴史」を思い出さずにいられなくなります。

手元に、第一回中目黒寄席のパンフレットがある。
この町内の風流変人、故 友田満美氏はこの寄席のパンフを一回目から氏が亡くなるまで全回分保存しておいて下さったのだ。
友田氏は、あの風体で、(油臭い町工場の社長風とでも言っておきましょうか) 中々江戸の文化・芸能に精通しておられる「通人」だった。よく後藤さん(真男・当落語会 発足当時の会長)と都内の名所旧跡巡りなどをなさっていた。

さてその第一回のパンフ。寄席文字など使ってない全文活字の印刷物。このパンフは、発足時、我が寄席のプロヂューサー役をしてくださった芝落語会の宮島さんに格安で作ってもらった物。
宮島さんは若いのに落語界に滅法顔がきき、噺家一人づつの力をよく知っていて、我々に数々のアドバイスをして下さった。
生業は印刷屋さんであった。この人なしでは、中目黒寄席というロケットは打ち上がらなかったと思う。

この宮島さんに作ってもらったパンフレットの表紙の下辺に「満員の節はお断りする場合もありますのでご了承下さい。」とある。
六十回の我が寄席の歴史でただ一回、「満員に付きお断り」した事がある。第九回中目黒寄席「小朝 真打披露の会」だ。

「若いのに、唄、舞、諸芸全般に秀でて、噺はうまいし、余計なことに顔まで甘い。追っ駆けのギャルまで付くアイドルタレントみたいな二つ目がいる。」と紹介し、宮島さんは小朝さんを早く中目黒に呼びたいと話していた。
小朝さんが初めて中目黒に来たのは、第四回中目黒寄席であった。「紙屑屋」という諸芸を披瀝する噺を堂々やってのけた。
若武者の自己紹介であった。
この日小朝さんの兄さん格として出演されたのが今回お呼びした志ん橋さん、当時二つ目の志ん太さんであった。

人気タレントのお付きで来た志ん太(現 志ん橋)さんみたいな紹介になってしまったが、それは違う。
当時大学では落研華やかな時代。
落語界には前座・二つ目があふれていた。
当然噺のうまい人とそうでない人がいた。

小朝さんのような才能が一目置ける兄さんは沢山はいなかった。そんな中でも志ん太さんは噺・人とも尊敬できる筆頭であった。
というより、協会を超えて当時の 「若手噺家さんの目標」 (これは,当時宮島さんがパンフで書いている言葉)であり、憧れであった。
青年団長みたいに人望を集めていたのが志ん太さんであった。
この日、志ん太さんが演じた「井戸の茶碗」は格調高い、いい噺だった。

志ん太さんの中目黒初登場は、第三回目小里んさんとの共演。
一見, 年齢不詳のお二人が 熱演したこの寄席は, 今でも語り草である。志ん太さんは「野ざらし」と「抜け雀」。八五郎が竿を振り回すと、会場、笑いは絶叫に近かった。止めてくれぬと腹が痛い!
も一つが「抜け雀」。
講談めいた噺はわが寄席のお客さんは好きである。
目尻に笑いと涙を貼り付けて帰って行ったお客さんを見て、寄席をやってヨカッタ!と思った。
つづく (U)

 

62回 H.12.3.21

中目黒寄席小史 A

中目黒寄席が発足して二十年経ったとか、六十回を迎えるとかで、このところ、マスコミにも取上げられ「歴史を振り返る」を強いられる事しばしば……
そんな訳で小史をまとめる事にしたが、この寄席、当初は商店主達が発起人となって始めたもので、どうしても、商店街の盛衰と運命を共にする傾向は避けられなかった。

目黒銀座が東京でも有数の賑わいを見せる商店街であった時期は昭和四十年代も半ばまでであった。
流通革命の進行過程で、中目黒駅を中心に、東にダイエー、西にライフ、南に目黒銀座、北に東急ストアと商業陣地を構える形になったが、最も早く劣勢が見えて来たのは目黒銀座であった。
その夏は猛暑の連続で、商店街への人出もことさら少なく見えた。

「何んとかしなくては!」と、目黒銀座の「若手」達が企画したのが、「中目黒ばざーる」というイベントであった。現在、富士銀行が営業している日生ビルの敷地は、当時、朝倉さんの経営する洗車場であった。空地がたっぷりあった。
その地をお借りして、各店がお買得品を持ち寄り大バーゲンを行なう事により、お客さんに、も一度こちらに向いてもらいたい!
アトラクションもしなくては!

企画会議が開かれた。
「企画書のアトラクション司会、このヤナギワカってのはだれ?」
部屋の隅で膝を抱えるようにして文庫本を読んでいた青年が、
「私です。春風亭りゅうじゃく(柳若)と言います。」
と言って顔をあげた。
これが前座時代の鯉昇さんだった。

アトラクションの司会が特別うまかった訳でもなかったが、ちょっとシャイな感じのするその前座青年を、今後応援して行ってみるか、という話になった。
いま、振り返ってみると、応援される必要があったのは、商店街のほうだったような気もする。
とにかく、鯉昇さんとの出会いが中目黒寄席発足の直接の動機となった。
幸運にも超成長株との出会いであった。
つづく

 

63回 H. 12.6.27

中目黒寄席小史 B

中目黒寄席発足当初、プロデューサー役を果たしてくれた芝の宮島さんは、初期十回余りの我らが中目黒寄席に、当時、二ツ目の若手実力家をことごとく呼んでくれた。
小朝、笑橋(現桃太郎)、小里ん、志ん太(現志ん橋)、さん喬、
小遊三、正雀、一陽(現愛山・講談)、時蔵
等など。

若くてこんなに巧い面白い噺家がいたんだ!寄席を企画する我々のほうが、のめり込んで行った。
殊に印象にあるのは、既にご紹介した志ん太さんの「野ざらし」「井戸の茶碗」や小朝さんの「紙屑屋」などのほかに、小里んさんの「ぼうだら」がある。
入道の如き風貌で、あのアカベロベロの侍……明治時代の江戸っ子から嫌われた薩摩侍を憎々しくもこの上なく滑稽に演じた。第二回目の寄席である。

其のほか、強い印象を残した噺は、
一回目 笑橋 おしの釣り
三回目 前々回に紹介した志ん太さんの野ざらし
四回目 小朝 紙屑屋 と 志ん太 井戸の茶碗
五回目 小朝 子別れ
六回目 さん喬 按摩の炬燵
七回目 さん喬 ねずみ
八回目 柳若(現鯉昇)二つ目昇進披露
九回目 小朝 宮戸川
十回目 正雀 小言幸兵衛
十一回目 小遊三 錦の袈裟
十二回目 一陽 谷風
十三回目 時蔵 百川

当たり前の事だが、私たちの寄席は、噺家さんの噺に支えられて軌道に乗り、噺家の噺によって魅力をつけてもらった。恵まれた出発であった。
この中で一番の年長は志ん太さん。当時三十五才前後。一番の年少は小朝さん。当時二十五才前後。今から二十年前である。
今、マスコミ界の寄席はどうしても年功序列の世界になっているから、重要文化財のような噺家さんが放映されることが多く、ここに挙げたような中堅噺家さんに触れる機会は少ないのだが、話術力では、確実に現在、業界のトップ水準にいる人達である。

かって、(筆者の少年時代)文楽や志ん生の出ている頃の高座で、現名誉会長で国宝の小さんの噺を聴いたが、声が大きく、テンポが速く、四十代だったろう顔面がテカテカ光っていた。
枯れたとか渋くなったとか、年老いてからの噺家の芸も魅力はある。だが、年も良く最盛期の噺家から客の体に向って飛んでくる放射能の被爆量は、断然大きかった。

さて、いま掲げた当時の若手実力派に追記されるのが、われらが春風亭鯉昇(当時柳若→愛橋)と入船亭扇遊(当時扇好)であることは、当然である。
鯉昇さんは、一回目から二十回目ぐらいまでは殆ど毎回、中目黒に出ていた。
独身の扇遊さんはそのころ中目黒駅のすぐ近くに住んでいた。扇遊さんが登場するのは第十四回である。
つづく U

 

64回 H.12.11.7

中目黒寄席小史 C

プロデューサー役の宮島さん(当時芝落語会)がある時、思い付いたように言った。
「中目黒に、扇好という若手が住んでいるはず。けっこううまいよ。」ということから、扇遊さんとの付き合いが始まった。
「扇好」は扇遊さんの二つ目までの名である。
すでにその頃、扇好の名は若手実力派として、知る人ぞ知る存在であった。
その上、ハンサムダッタ!

今、中目黒駅前は再開発で戦場のような工事現場になっているが、当時は百五十世帯が生活し大半が飲食店であった。
扇遊さんはここらの店で、一般人の生活サイクルとはちがう時間に、よく食事をしていた。それが必ず女の子と一緒であった。
そしてなんと毎回異なる子である。
一般人の生活にはあまりない事だ! 後に、扇遊さんは、スチュアーデスの女性と結婚して、今でも大事にしておられますが……
一般人には何ともウラヤマシイ、ウラメシイ、噺家とは何と恵まれた職業かと、扇橋一門には、その後、勘違いした若者が噺家志望で殺到し困ったとか、

情報は公平でなくてはいけない!八十数回見合いをして、
ことごとく振られ続けた噺家も居た事を若者には知らせ
るべきだった。(ご存知、春風亭鯉昇さんのこと)

扇遊さんは、周囲を陽気にさせる明るい性格の人柄だけど、若くして人情噺など「巧い噺」の出来る噺家だった。中目黒寄席初登場の夜は、「佃祭」をやった。
この噺で結構大事なのは、佃島の女の亭主で船頭をしている男の気風のよさを表現すること。これがないと、じめじめして救いの少ない噺になる。三代目金馬に折り紙付きがある。扇遊さんは、この時立派にこれを料理した。
十数年後、平成六年の中目黒寄席で、再びこの「佃祭」を演じた。ご記憶の方も多いと思いますが、絶品のトリだった。
昭和五十年代、「巧い扇遊」「面白い鯉昇」に支えられて中目黒寄席は順調に続けられたが、この二つの個性が対決するタイトルマッチが出現する。

昭和五十八年度、NHK落語新人コンクールは、十一月三日(文化の日)に放映された。
二十余名の若手の中から数名が決勝戦に残った。
扇好(=扇遊)愛橋(=鯉昇)とも初出場でこの中にいた。マスコミの下馬評では、実力の扇好か、経験の富丸(出場四回目)かがトップ争いという声が強く愛橋は選外のような扱いであった。
はなしが始まると案の定扇好が「巧かった」。
だが大きな動作と表情で笑いを取ったのは、愛橋だった。
並みの落語通は、可笑しさよりも巧さの方に軍配を挙げるものだ。文楽を志ん生の上にする。
だがこの時はちがった。軍配は愛橋に挙がった。

最優秀賞 春風亭愛橋(粗忽の釘) 初出場
優秀賞 入船亭扇好(無精床) 初出場

審査員の一人大野桂の談。「とにかく愛橋のようにオモシロサで金的を射たのは、今回が初めてである。」
「うまさ」と「おもしろさ」の葛藤は、落語、永遠のテーマである。

二人の受賞は中目黒落語会としても鼻高々の快事件であった。
二つの個性はその後今に至るまで各地で、
二人セットで落語会を開いている。
二人に共通点もある。どちらも静岡県出身。
どちらにも別嬪さんの女房がいる。(今では、鯉昇さんにも……)

鯉昇さんは、最近、人情噺を意識的に手掛けている。
「うまさ」へのチャレンジ。
鯉昇さん、前々回六十二回、名人物「ねずみ」をトリに演じた。こころの中にぬくもりをそっと入れてくれるような噺の好きな中目黒のお客さんを満足させた。
つづく U

 

65回 H.13.3.6

中目黒寄席小史 D

中目黒寄席の歩み、二十数年が、常に順調だった訳ではなかった。一九六〇年代から続く流通革命により小売店の淘汰は依然続いていた。
加えてバブルの進行と共に現在再開発工事の部分の地上げが始まり、商店の交代・消滅が進んだ。
一方、残っている店も二〇年近く営んでいると、当然、世代交代が起きる。
落語会の世話人であった若旦那達も多くは、大旦那になっていた。先代のころは沢山抱えていた店員は、自分の代になると、殆どいなくなっていた。
中目黒寄席、苦難の時代は、そんな時代背景だったのだろうか。
.................*
根多帳を開いてみると、昭和六十一年には年四回ひらかれた中目黒寄席が、六十二年には0、六十三年一回、六十四年(平成一年)0、となっている。
この頃には、発足当初の曖昧だった世話人グループが、閉店等情況変化で離散。
奥村、中田の二人で、企画・準備等をつづけた。
六十三年のパンフは、ワープロによる手製。今、見るのも恥ずかしい物。この苦境から再度立ち上がるバネになったことが、二つあったと思う。
一つは、現在の六人の世話人、当時の若手グループに呼びかけ、新たな世話人グループとして結束、再出発を模索することになったこと。
...................*
も一つのバネは、二つ目春風亭愛橋(現鯉昇)が、「今度、真打になります。」と言って、ご無沙汰お互いの商店街に現れた事だ。
放っておく訳にはいくまい! 恩人だ。中目黒落語会発足の動機になった噺家のお祝いだ!
愛橋改め鯉昇真打披露の会は、平成二年五月に、一年半明けていた目黒銀座会館の高座で行われた。
中目黒寄席発足のきっかけになったのも鯉昇だったが、再出発のきっかけを作ったのも鯉昇だった。

*会話*
(甲) ものごと、盛衰はつきものサ。
(乙) いま、中目黒寄席は、会場定員いっぱいの盛況が
続いてる が、きっとまた低迷の時は来るだろうヨ。
(丙) 来るだろナ。
(甲) その時、また再出発のきっかけを作ってくれるのは、
鯉昇さんだろうナ。
(乙) きっかけは、何ィ?追悼公演。そんなこと口に
出すんじゃないヨ。
(丙) その時は中目黒落語会 解散のきっかけダ。
..................U

 

66回 H13.6.26


落語と目黒

今回出演される竜楽さんは墨田区吾妻橋に住んでおられます。最近ではレッサーパンダの帽子を被った衝動的青年による殺人事件で有名になりましたが、東京落語の半分ぐらいは、この吾妻橋辺り、つまり、浅草、隅田川べり、それに吉原が舞台。
この辺り、桜・花火と並んで落語でも名所という訳です。

その他に落語の中の名所を東京に探すと、上野、品川、芝 、ここらが三役クラスでしょうか。芝落語会が、かって芝にゆかりの落語を数えたら、十一話あったと聞きます。
さて、それでは目黒に関わった落語は、どのくらいあるのだろう? 結論から言うと、目黒が舞台になっている噺は、ご存知の「目黒のさんま」だけのようです。話の舞台にはなっていないが目黒の名が出て来る落語には、「黄金餅」「おかめ団子」があります。

「黄金餅」は、どケチの乞食坊主が、貯め込んだ有り金を飲み込んで死ぬ。
それを見ていた男が、火葬場で金だけくすね取り、その金を元手に目黒に餅屋を開き成功。
江戸名物黄金餅由来の一席というブラックユーモア。
坊主が死んだのが、下谷山崎町、葬式は麻布絶口釜無村、火葬場は桐ケ谷となっているから、男は金をくすねて、下谷に戻らずドロンをしたのだろう。
当時、農村目黒の唯一の盛り場、お不動様界隈は、桐ケ谷のすぐとなり、此処しか商売が出来る場所はない。

「おかめ団子」は、美人の看板娘がいる麻布の超繁盛店。
この店に泥棒に入ろうとする男。
この男が中目黒村からやって来る大根売り。
末はこの男、美人看板娘と結ばれる!とは、これまた変な話。

「目黒のさんま」は、お殿様の世間知らずを嘲笑った滑稽噺。
殿様、遠乗りの折り、中目黒村で食ったさんまの味が!
忘れられない!
さんまは御屋敷ではお膳に出ない下魚である。
念願叶ってさんまを食せるチャンスがきた。
が出てきた物は、お殿様向け上品料理。まずい!
そこで「さんまは目黒にかぎる。」となる。
このサゲは、目黒がさんまの名産地では絶対ない、と言う立地的前提があって成り立つ。

果たしてそうだろうか?
目黒のさんまはもともと美味かったのではないか?
中目黒村の百姓は、何処でさんまを買ったか。

三代目金馬の噺では、都心へ大根菜っ葉を売りに行った帰りに、どこかでさんまを買って来た事になっている。想像では、行人坂から白金に出て芝あたりまで商売に行ければ、新鮮な魚が手に入る。
林家彦六(正蔵)の噺では品川へでえこ(大根)を売りに行った帰りに、さんまが安かったから買って来た事になっている。
芝も品川も魚が手に入る所だから、話として無理はない。しかし秋の西日を浴びて野道を歩いて来たさんまが美味とは思えない。

ここで書物からの抜書きをひとつ。
朝日新聞社刊・佐藤光房著「東京落語地図」落語ファンには欠かせない文庫本です。

:::だいいち、冷凍技術はおろか流通機構も不備な江戸時代、草深い目黒の百姓がサンマを食べられたかどうか? と言う疑問を出したら、目黒区教委の長沢英男先生いわく「目黒川には船着き場があり、大正時代まで、品川から船が上がって来たものです。」:::

これです!
二十年ほど前まで、中目黒の交差点の脇、材木店(浅源)との間を目黒川に下りて行くと堂々とした、そう! 広くて立派な石畳の船着き場があったのです。
今、無国籍様式の公園に改造されている所です。電車や道路が出来るまでは、ここは、物資・情報・文化の取り入れ口だったのです。維新の政府は、この中目黒交差点の正覚寺の角に当たる場所に、最初の目黒区役所を建てたのです!

残暑の秋、水上を運べば、地上より五度か十度の温度差は稼げる。鄙びたとはいえ中目黒村の農家は美味い秋刀魚を食っていた!と思います。

それにしても、行政が机上で立てる都市改造プランは、大義の旗の下、住民の心の中の財産を奪っていく。
現在の無国籍様式船着き場公園は、かって石畳の桟橋に立つ者に、さまざまな想像力を呼び覚ました風景ほどの力を持っているだろうか。
(U)