2005,5,24,78回中目黒寄席パンフより

 

区役所の小倉さんから「今さら何んですがァ、落語の目黒のさんまは何時頃できた噺ですか?」と質問の電話が入った。

さあァ大変。エセ落語通に逮捕状が来た。

ひとまず容疑者「時間をください」と執行猶予願い。

 

とも角、パソコンを落語社会に繋いでみた。

「目黒のさんま」については、地理学的解説が圧倒的に多い。目黒区観光課の指導が行き届いてか、

「茶屋坂は目黒のさんまの舞台である。」

これ国民的世論として定着!

ところが、この噺、何時出来たのか?となると歴史学的見解はまるでお粗末!

その少しある歴史学的見解は、眉つばネタばかり。

インターネット社会の無責任おしゃべりよ

一、モデルは徳川三代将軍家光なり

二、落語「目黒のさんま」の初出の文献は「重修本草綱目啓蒙」(1801)なり

三、禽語楼小さん(1898没)が完成させた

以上三見解のうち、

三、禽語楼小さん完成説は重要ヒントであった。これについては後に触れたい。

一、モデル家光説は、状況証拠は多少あっても、判決は到底出せない。日記などに少なくとも2回は、目黒に鷹狩に来た記録がある。(日光東照宮著 徳川家光公伝)だが昼食弁当事件・サンマ御対面などの記事はない。

二、「重修本草綱目啓蒙」 初出し説は誤り。

こんな読めない文字の古文書を持ち出されると無学者は信じてしまう。実物が国会図書館にあった。頼んで二日目に実物全三十六巻に触れることができた。江戸時代の博物百科辞典である。落とし話が出てくる書物ではない。しかし、魚類サンマの解説については初出しなのかも知れない。

さてこの字何んて読む。

ワード君もあわてて、倉庫の奥から出して来た活字だ。

「さより」と読むのだそうだ。

・・・紀州熊野ニテハ此魚ヲ オキサヨリト云ウ 方言ニテサヨリト呼ブモノハ江戸ニテサンマト呼ブモノナリ・・・(重修本草綱目啓蒙三十魚類鱗之三)

おいおい、おかしくはないか? 

サヨリは寿司屋にあるが、サンマはあるかい? 

第一、サヨリは春の魚だ。

 

古文書から離れて「目黒のさんま」の立場になって考え直してみよう。

そもそも

一、お殿様を揶揄する話を江戸時代に口演することが許されたのか?(武士階級を愚弄する「たがや」「棒だら」等もふくめて)

二、現行の東京落語の原型は上方にあるものが多い。(だが目黒は上方ではない)

三、現行の東京落語は多くが明治時代に形ができた。(江戸から明治へ、上方から東京へと新しい時代に新しい都会の落語が創られた。)

 余談だが、近頃「江戸落語」という言葉をよく見聞きするが、論理的にはかなり注意深く使わないとならない単語だ。それよりも、「目黒」の「さんま」 中々複雑な立場に置かれた噺だったのだ。

 

「目黒のさんまが生まれた日」に辿り着く三つの予想ルート

一、江戸小話など江戸時代の笑話集の中に「目黒のさんま」の原型小話があるか?

二、上方落語の中に原型となる話があるか?例えば「先斗町のさより」とか!これでは濃艶笑話に流れるか?

三、明治時代になって突然湧いて出た噺か?

イ、幕末から明治にかけて流行った三題噺から生まれたいい噺も少なくない。

ロ、(空想)江戸時代に「禁止落語」があった為、隠れ寄席があった!四民平等になって噴出すように出てきた噺とか!これは全くの作り話! 講談「大塩平八郎忍びの寄席夜話」うそ大ウソ!

 

ここまでで区役所には中間報告としておくか。

今回は目次だけだったナ。果たしてこの次の中目黒寄席までには「目黒のさんまの生まれた日」を確定申告出来るだろか。それともいつものように謝るか転出届けも貰っておくか。 (続)

 

目黒のさんまが生まれた日 (二)

2005,8,23,79回中目黒寄席パンフより

 

 

区役所の小倉さんから「今さら何んですがァ、落語の目黒のさんまは何時頃できた噺ですか?」と質問の電話が入った。

さあァ大変、生まれた日を調べるのは役所の仕事と思っていたが、ひとまず「時間をください」と執行猶予願い。

 

あなたは明治時代の噺家を何人知っていますか。

先ず「牡丹燈籠」などで有名な三遊亭圓朝と答えますね。あなたは日本史の勉強をしっかりやった。次に柳家小さん(三代目)と答えたなら、あなたは物識り。夏目漱石が贔屓にした名人小さんだ。(この前亡くなった人間国宝で栗型顔の小さんは五代目)。三代目小さんと同じくらい有名な噺家が三遊亭円遊。そう、あなたは落語通。ステテコの円遊、鼻の円遊として爆笑を取った滑稽派。明治時代の「三平」みたいな人だ(ったそうだ。)更に通なら、出すべき噺家の名が四・五人残るが、その中に談洲楼(柳亭)燕枝と禽語楼小さん(二代目小さん)とがいると思う。

この五人の噺家、つまり圓朝、二・三代目二人の小さん、円遊、燕枝は、お互いプラス・マイナス両面で係わり合いがあり、一人を紹介しようとすると他の噺家名が必ず必要な間柄である。

さて、ここに挙がった名前の中で「目黒のサンマ史」に係わって来る人間が三人いる。最後に無理やりのように登場させた二人の噺家、談洲楼燕枝と禽語楼小さんと、もう一人は、夏目漱石だ。

 

最初に漱石の目黒のサンマを片付けておこう。

大正三年漱石は学習院の学生を前にして「私の個人主義」というタイトルの講演をしている。

その言わばまくらで目黒のサンマの粗筋を丁寧に紹介し、次のようにつなぎ本題に入っていく。

「立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、お聞きになろうというのは、丁度大牢の美食に飽いた結果、目黒の秋刀魚が一寸味わって見たくなったのではないかと思われるのです。」

この時漱石の紹介している目黒のサンマは変っている。お大名が二人登場。二人が一緒に目黒に鷹狩りに行く。二人は秋刀魚を肴に非常に旨い昼飯を喰う。この味を忘れられぬ二人、後日、一人が他を招待して秋刀魚を食うチャンスを作る。そこで不味い秋刀魚が出てくることになる。

二人のお大名。ここには漱石の記憶違いがあると思う。が間違い易い明治の目黒のサンマの状況もあった。時間があればこれは後に触れよう。講演は大正三年だから漱石が実際に寄席で聞いたのは明治の時代だったろう。きっとご贔屓の三代目小さんの噺だったろう。

漱石の目黒のサンマについては、一先ずこれまで。とに角明治時代の寄席に、目黒のサンマがあった。

 

明治時代半ば、速記術が大層はやる。もとは西洋の技として議会や新聞界に移入されたものだろうが、この技が最も有効に!活用されたのが、寄席の話芸に対してだった。明治十七年三遊亭圓朝の牡丹燈籠が口述速記本として発行されるとベストセラーとなる。これをきっかけに落語講談の単行本・雑誌が数多く発刊されるが、この風潮は二葉亭四迷らの近代日本文学の言文一致化運動へと影響して行く。

 

速記術のおかげで、かなりの数の落語が「誰々の語った噺」として活字に残った。その中を捜し廻ると目黒のサンマで噺家の名が付くものが二つあった。談洲楼燕枝と禽語楼小さんのそれだが、目黒のサンマの解説で明治の噺家として、必ず登場するのは禽語楼小さんのほうだ。「流石、士族出身の噺家、得意ねた!。侍描写は余人の真似許さず。」等と目黒のサンマの初演者、或いは作者かのように扱われている。

 

ところがここに疑問が浮かび上がる。談洲楼燕枝と禽語楼小さんの間柄は、師と弟である。

談洲楼燕枝は、禽語楼小さんに「再会」した頃から柳派の頭領と仰がれる人物である。

「柳亭燕枝が、三遊派の一枚看板の三遊亭圓朝に対して、柳派の一枚看板となったのは明治十四、五からである」(暉峻康隆)

明治三十三年は明治の大物噺家が多く亡くなった年である。燕枝、圓朝も前後して逝った。

「当時東京にて落語家と称するものに二派あり一を三遊派となし、一を柳派とす、三遊派は圓朝を以って宗とし柳派は燕枝を以って頭領とせり、何れも一流の名人として明治落語家中の泰斗たりしが、いまや圓朝凋み燕枝枯れ、これが後継者たるべき柳枝柳橋共に逝きすこぶる寂寥の頂に達しぬ」(「江戸の落語」関根黙庵)

その燕枝より先に若くして禽語楼小さんは逝ってしまう。

燕枝に対し頭上がらぬ借りを抱えた禽語楼小さん。東京で活躍する時期が遅く短かった禽語楼小さん。

さて目黒のサンマ初演者は?

次回のお楽しみと、

 

目黒区サンマ生誕記念日制定の発議は更に遅くなりそう! 

役所の中笑って歩いてはまずいナ。 ()

 

 

目黒のさんまが生まれた日 (三)

2005,11,21,80回中目黒寄席パンフより

 

 

区役所の小倉さんから「今さら何んですがァ、落語の目黒のさんまは何時頃できた噺ですか?」と質問の電話が入った。

さあァ大変、ひとまず「時間をください」と回答猶予願いを出しておいた。。その後、催促がないまま今年の秋も終わろうとしている。

あきらめたか。あてにしてないか。

 

今回は禽語楼小さん(=二代目柳家小さん)の一席。

 

当初「目黒のさんまの生誕日」は簡単に分かると思った。落語の世界には明治時代前半から速記本がある。

目黒のさんまについては初代柳亭燕枝と二代目柳家小さんの速記本があった。小さんの方は演じた時期が(明治24年)ほぼ確定できる。燕枝のほうには演じた時期を推定できる資料が見つからない。燕枝の目黒のさんまについての当時の論評解説などは見当たらないのだが、

状況証拠は、燕枝が先に高座に乗せたと言っている。

燕枝は小さんの師匠である。

小さんは東京で活躍する時期が遅れる。

燕枝は自作物が多く、三題噺を得意とした。

 

通説では、目黒のさんまは小さんの得意ねたということになっている。さすが士族の出身。殿と家来のいでたちの描写は、他がまねの出来ない見事なモノということになっている。

出自と時代を考えると小さんの行動には非常に興味があるが、その辺の経緯・心境について書かれた物は見当たらない。

小さんは江戸時代末期、九州延岡藩(現宮崎県北部)の藩士で、高島秋帆(後に幕府砲術師範)から砲術を学んだともいわれている。

延岡藩は九州では数少ない譜代藩。幕末から明治。王政復古へと激変する流れの中で、九州諸藩が討幕派に立ち、延岡藩は譜代として孤立することになるが、薩摩藩による新政府側(倒幕側)への忠誠要求を受け入れ、時代の流れに沿って明治を迎える。

小さんの資料には、鹿児島士族と身分を表示しているものがある。(談洲楼燕枝著「燕之巣立実痴必読」)その鹿児島士族小さんが明治元年、勝者となるはずの身分を捨て、江戸で噺家になる。日本中で戦火が上がる一年(戊辰戦争の一年)に、である。

 

厭戦か臆病か、それとも時代の先を見通した計算か、

江戸(東京)に出た小さんは柳亭燕枝の門下に入る。

ところがすぐに黙って東京から消える。

以下三代目柳亭燕路師による小さん紹介を引用しよう。

「初代燕枝の弟子となり、その弟子の中では入門はごく古いが、一時この社会を飛び出している。その後、元に復帰したのは「講談落語古今譚」(関根黙庵著)によると明治十三年とされているが、これは誤りである。本当は明治九年に当時住んでいた静岡から上京し、師匠に侘びを入れているのである。この時期に静岡に在住していたので燕静の名を燕枝に許され、明治十一年、燕枝が静岡に興行に行った際、東京の寄席に復帰する話が出て同年暮れに上京、翌十二年正月より燕寿と改め東京の寄席に復帰したのである。」

この時期出身地延岡では、明治十年、日本史最後の内戦西南戦争があり、田原坂の戦い同様、延岡の戦いは最も激しい戦闘であった。

この戦で士族の実体がなくなる。

この間、黙々と(?)二代目小さんとなるべき男は、芸人を勤めていた。

そして明治十六年に燕寿は二代目柳家小さんを襲名した。

 

この小さん「柳派」でありながら、「三遊派」のステテコの円遊と仲がよく、円遊が高座でステテコ踊りを始める以前に、二人はお座敷でこの踊りを踊っている。ステテコ踊りの原形は静岡にあったとされている。

圓朝、燕枝が長編、連続の人情噺で「正統派落語」路線を歩むのに対し、小さん円遊は短編、「滑稽落語」路線で師匠連中をしのぐ人気を集める。昭和で例えれば歌笑、三平(知らない?)のような存在だったのだろう。

小さんは士族出身ということが噺に厚みを加えたのか、目黒のさんま、将棋の殿様、蕎麦の殿様、殿様の廓通いなど「殿様もの」を得意とした。

明治二十八年三月に弟子の小三治に三代目小さんを譲り、自らは柳家禽語楼となったが、その頃から健康を害し明治三十一年七月、五十歳で他界している。

師匠燕枝は明治三十三年二月六十三歳で他界する。 (続)

 

 

目黒のさんまが生まれた日 (四)

 

 

区役所の小倉さんから「今さら何んですがァ、落語の目黒のさんまは何時頃できた噺ですか?」と質問の電話が入った。

「ハイハイ落語目黒のさんまの誕生日を探すのね」と安請け合いをしてもう一年。困った!

 

今回は談洲楼燕枝(初代柳亭燕枝)の一席

 

前回禽語楼小さん(二代目柳家小さん)について述べた。

禽語楼小さんは「目黒のさんま」を得意とした明治前半の噺家で、真っ先に「目黒のさんま」の創作者と見当をつけられそうな人物である。

ところがもう一人、明治時代の記録として談洲楼燕枝の「目黒のさんま」が大日本雄弁会講談社の「評判落語全集・上」(昭和八年)に残っている。解説文で演者・初代談洲楼燕枝の紹介をしている。

二人の「目黒のさんま」の内容は現代行われる「目黒のさんま分類区分」によると同じ噺の種類に入る。

つまりどちらの噺も「古い形」のもので、

・お殿様は松江藩主不眛公の子息の松平出羽守。

・さんまは房州沖の産。

・「さんまは目黒にかぎる」のせりふは江戸城内で

黒田筑前守との会話で、である。

そこで、談洲楼燕枝は禽語楼小さんの師匠であると注釈が入ると、結論は師匠が先、弟子が後から演じたと決め付けるのが常識的判断。

 

ところが初代燕枝について調べてみるといろいろ疑問がわいて来る。

この講談社「評判落語全集・上」の噺は本当に談洲楼燕枝(初代柳亭燕枝)の噺なのか。

先ず、何時はなした話か分からない。全集に繰り入れられているだけで口演時期が明確ではない。昭和八年出版のこの全集では解説文で初代燕枝としているが、本当は二代目談洲楼燕枝ではないか。二代目燕枝は自伝的芸談「燕枝芸談」という小文の作者で、昭和十年に亡くなっている。

この辺は講談社に出版当時の資料があればいいのだが。

 

禽語楼小さんの「目黒のさんま」は明治時代の演芸雑誌「百花園」四十九号明治二十四年五月五日と五十号五月二十日に連載されている。百花園の取材方法は、出版社(金蘭社)へ噺家に出向いてもらい、速記者の前で口演してもらうものであった。当然、口語体で記録された。

目黒のサンマ

    禽語楼小さん 口演

    酒井昇造   速記 と記されている。

 

ここでもう一つ問題点が浮かび上がってくる。初代談洲楼燕枝も雑誌「百花園」に登場する(百花園に燕枝の目黒のさんまはない)が、燕枝は速記文のまま活字にされるのを好まなかった人物であった。

燕枝は圓朝同様に膨大な長編人情噺を創作しているが多くは文語体で残っている。

ここで圓朝の「眞景累が淵」の冒頭と燕枝の代表作「島千鳥沖白浪」の冒頭を較べてみよう。口述速記された圓朝の文体と自ら書き下ろした燕枝の文語体の差異は歴然としている。

 

圓朝作「眞景累が淵」(しんけいかさねがふち)

こんにちより怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。

 

燕枝作「島千鳥沖白浪」(しまちどりおきつしらなみ)

賭博を事とし、禁を犯し、その身の破滅を招く者も、そのはじめをば押す時は、誰か仁義を知らざるべき。されども義理のしがらみにからむ絆の切れやらず、わざとその身をもち崩し、ついに染まりて、善からぬ事も良きと思ふて、暮すもあるべし。

 

講談社の全集に残された「初代燕枝の目黒のさんま」は、口述速記文の文体で書かれている。  (続)

 

 

目黒のさんまが生まれた日 (五)

 

 

区役所の小倉さんから「今さら何んですがァ、落語目黒のさんまは何時頃できた噺ですか?」と電話が入ってから既に一年以上になる。安請け合いをしたがまだ答えが出ない。困ったものだ!

 

今回は 目黒のさんまが生まれた日「外伝」

禽語楼小さんの愛人「岡本宮子伝」お粗末の一席

 

前回のはなし、目黒のさんまを最初に演じたのは、禽語楼小さん(二代目柳家小さん)か初代談洲楼燕枝かどちらとも決めかねる所で、話は行き詰ってしまった。

禽語楼小さんは「目黒のさんま」を得意とした明治前半の噺家で、真っ先に「目黒のさんま」の創作者と見当をつけられそうな噺家である。この男を調べていくうちに「おんな」が出てきた。無論、かみさん以外の「女」である。

 

いつでもどこにでも、ミメ好いアイドルタレントを追い掛け回す若もの達はいた。

明治の女流文筆家長谷川時雨が「美人伝」で語る。

「ここで書こうとする岡本宮子ほど評判のあったものはない。大学の学生の間に、宮子の名の語られない日はなかった。ことに慶応の学生に贔屓が多くあったので、芝区の寄席に数かけていた。日蔭町の玉の井、三田の春日という席が定席で、岡本浄るりで鳴らしてゐた。

宮子の母親は宮濱といって、これも名は高かった。宮子も後には宮濱の名をついだ。初代宮濱の出る前までは寄席に色ものもなければ、女義太夫もなかったのである。十八九のおり(明治二十年頃)の宮子の人気は素晴しかった。絵葉書のない時分のこととて、手札がたの彼女の写真は飛ぶような売行きであった。」

明治を随筆で残した馬場孤蝶(当時慶応の学生)も随筆集「葉巻のけむり」のなかで書いている。

 「地方から来ている書生などで、この女に焦がれてかなりの金をつぎ込み、それでも目的を達しえずに発狂してしまった者があるという話であった。

その宮子が真打で小蝶とかいう女の手品師などが出た。で宮子が新内を語ってしまうと、その小蝶というのが又出てきて宮子と一緒になって、所謂る浮かれ節という都々逸その他を唄ったり、宮子が立って踊って打ち出しになるのであった。」

岡鬼太郎は「諸芸昔話」で

「高座のは坐り踊りに限るのだが、ご婦人は赤いものなど閃めかす所に又格別の愛橋があるらしく、皆突っ立ってお見せ下さったものである。然るにそのチラチラがよからぬにや一時寄席の立ち踊りは禁制となった。

宮子の新内の出来は褒められていない、がとにかく美女が色気を振りまく新時代明治の東京である。たまったものではなかったろう。この岡鬼太郎は劇作家で当時これも慶応の学生。画家・岡鹿之助の父親である。

再び、長谷川時雨が語る

「後に宮子が母の宮濱の名を継いでから、世話になっていた人に死に別れて、禽語楼小さんといったかなりな噺家の妾になったおり、東京新誌に書かれて、その新聞はその事件を載せたため二千部の版を重ねたということであった。当時二千部といえば非常な売行きであった。」

宮子は小さんの正妻お花と一つ家内に暮らした。

更に馬場孤蝶が語る

「宮子は少し人気が落ちた時分になって禽語楼小さんの妻(妾)になった。小さんと宮子では大分歳が違っていた。小さんの家内にいるうちから、とかく従順では無かったとかで小さんの没後は、宮子はひどく落魄の生活を送っていたらしかった。」

長谷川時雨更に語る

「全盛に果てはあるまいと思われた宮子の末路こそ、全く誰にも思いがけない悲惨なものであった。盛りをうたわれて、天下の書生の美の女神で会った頃の宮子は、浮草の花にも似ず、だんな一人に操を守っいた(疑問符を付ける者も多い。岡本文弥など)のであった。その旦那に死別した頃にはもう(宮子改め)宮濱となっていた彼女に、昔の面影と人気は帰ってこなかった。時の足は早く、岡本浄るり語りの宮子を寄席の高座に崇めていた時代はずんずん過ぎていって、彼女も老いを見せれば、彼女を信奉していた書生さん達は、名士になり、夫になり、親になって、彼女の名も昔語りに過ぎなくなってしまった。」

 

明治三十五年三月二十四日新聞「萬朝報」が報じた。

「落語家の名家と称えられし故禽語楼小さんの妻(妾)たりし清水おいね三十三歳(=岡本宮子)といえるは長男幾雄(11)次男次郎(7)の両人を禽語楼との間にもうけながら夫の死後は生活に困窮したるまま、両人の愛児を本所区林町辺へ預け、自分は程なく芝区愛宕下町一丁目四番地洋服商成田駒雄方へ再婚したるが、昨年に至り血脚気を悩みしに、駒雄は無情にも離縁したれば、頼るべき所も無く、実姉お雪の縁付き居る本所区緑町二丁目七番地高利貸橋本八右衛門方へ訪ね往きしに、これまた無情にも構いつけざるにぞ、涙ながらに昨夜八時、降りしきる雨に濡れそぼち、再び冬にや、吹き返す寒風に身を震わせて本所署に保護を願い出たりと。」

萬朝報は翌々日から三日連載で宮子の生立ちを記事にする。そこでは宮子の生き方の我が儘気儘、ふしだらさ加減を指摘、批判している。これは反論したい!予期せぬ人気・収入によって体得できた人間としての尊厳と主体性。いったん手にしたそれを「女の全盛」が過ぎたからと、御かみに返さなくてはいけなかったのか。

女の切符がないまま走り出した明治維新という列車に飛び乗った女。遠くまでは行けなかった。

 

宮子はこの記事から五ヵ月後に板橋の養育院で死ぬ。

三十四歳。遺品は「木綿茶縞綿入れ一、襦袢二、かすり前掛け一、腹合帯一、腰巻二、」だった。

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今回出演する円馬紹介に換えて        2006,8,28,83回中目黒寄席パンフより

「目黒のさんまの生まれた日」  外伝・円馬物語の一席

 

今回出演の三遊亭円馬は五代目円馬である。大きな名だ。だが初めから大きな名などない。大きな才能が大きな名を残したのだ。さて名跡圓馬物語のキーワードは、「圓朝」「大阪」「橘之助」。

先ず

初代円馬 諸芸懇話会編八十九年出版・「古今東西落語事典」より紹介しよう。

「三遊亭圓朝の門人となる前の前半生についての資料が殆どない。圓朝が真打となった時、無人の圓朝門を補強するため、圓朝の父円太郎の依頼などもあって、十二才も年下の圓朝の門人に加わったそれまでの高座経験もあり、達者な芸で圓朝の興行を助けたことであろう。圓朝門下の四天王といわれ、明治前半の三遊派の重鎮であった。明治十三年十月十一日、五十三才で没し、師圓朝はこれを悲しんだ。」

 

二代目円馬 「空堀の師匠」といわれた二代目三遊亭円馬は、安政元年に水戸の藩士を父に江戸で生まれた。初め柳亭左龍の弟子となったが、後に三遊亭圓朝の門に移り、明治十七年、二代目三遊亭円馬を襲名した。一時は圓朝の後継者として二代目圓朝襲名の最右翼だったが、実現しなかった。

明治二十四年師匠圓朝が寄席と折合いが付かず、東京の寄席からの引退を宣言すると、師匠に殉じて円馬は大阪に転ずる。以降、円馬は大阪(の空堀)に定住する。大正七年暮、辞世「ばらばらになって音なし古扇」一句を残し永眠。生前すでに、三代目円馬の名は橋本卯三郎に譲っていた。

 

三代目円馬本名橋本卯三郎)の生涯を紹介するには紙面が足りない。その波乱の生涯を数行で書く。

大阪生まれ、父は噺家。初高座は七歳。十二歳の折、上方巡業中の立花家橘之助一座に呼ばれ東京で修業することになる。この女音曲師橘之助との出会いが三代目円馬の履歴を決定付ける。(女師匠橘之助の人生自体、一篇の数奇な物語であり、折りあらば紹介しよう。)

昭和の大名人八代目桂文楽の自伝「あべらかべっそん」から先ず三代目馬生を紹介しよう。

「むらくの頃の円馬師匠が、鱈昆布(たらこぶ)のおつゆを吸う処を教えてくれましたが、確かに他のおつゆじゃない、こう鱈の骨をだす具合、昆布をたべて又おつゆを吸う具合、ほんとに鱈昆布のおつゆを吸ってるように見えるんです。羊かん一つ食べるしぐさでも、どういう家の羊かんか、ちゃんとたべ分けて見せてくれるし、豆だって枝豆、そら豆、甘納豆、みんな食べ方が違うんです。そういうことが出来なくて、尺差しの物差しで、ピシャリと私は手の甲を叩かれ、紫色に腫れ上がったこともありました。何しろその頃の、むらくの円馬師匠の売れ方といったら素晴しいもので、その上、飛ぶ鳥を落とす勢いの品川の師匠(世橘家円蔵)と、女ながらも勢力のあった浮世節の立花家橘之助とがいつもスケ(助演)に出てはひっぱったから、本来巧いところへ一層メキメキ売り出した。」

あの文楽を文字通り鞭打って育てた。文楽は三代目円馬に心酔し師事した。むらくの名は三代目円馬を襲名する以前、真打に昇進した時の名である。正確には、「朝寝坊むらく」から三代目円馬を名のる以前に「むらく」を返上し、本名(橋本)に改名しなくてはならない期間があった。むらく自身が起こした暴力事件の結果である。些細な事から恩義のある先輩四世橘家円蔵を公衆の面前で殴ってしまう。

「あべらかべっそん」で文楽は語る。

「品川の師匠(四世橘家円蔵)と大喧嘩をして、東京を売ってしまいました。深いことは分かりませんが、橘之助師匠との三角関係だということです。それから師匠(円馬)は、橋本川柳という芸名で長い旅へ出てしまいました。」

二代目に続き三代目も東京から大阪へ。正岡容は昭和十七年、随筆「三遊亭円馬研究」で嘆きつつ語る。

「三遊亭円馬の名は、つづいて二代、江戸を売り、大阪に終わるの運命に支配されている。二代目円馬は師圓朝の芸界隠退と行を共にして、あたら名人が大阪の人となってしまった。今の三代目また、大阪人であるとは言え、今日、東京にあるならば、当然最高峰以上の存在である。それが大正中世、品川の師匠(円蔵)と確執を生じ、飄然、東京を去ってしまった。聞くならく円馬、今起居はそれほど不自由でないが、肝心の舌へもつれが来てしまったと聞く。再びこの大才の話術に接しられなくなった日本芸能界の損失は深く大きい。」

以降、上方落語界に籍を置き、東京落語の円馬は別格大物扱いされ、大阪で昭和二十年に亡くなる。

 

四代目円馬 昭和五十九年八十六歳で亡くなった先代の円馬師をご記憶の方も古い落語ファンには多いだろう。東京生まれ大阪修業、東京で四代目襲名。

九九年刊橘左近著「東都噺家系図」に語らせよう。

上方にあって円馬の内輪で修業していた小円馬が戦後、円馬を相続する。二代三代の名手を師と仰ぎ骨格の正しい芸風と豊富な持ちネタ、落語業平と異名をとった秀麗な容姿、オットリとして独特の口調、温和で気品のある高座、一席あとの踊りは年季もの。その袴姿にご婦人たちの身震いは止まらなかった。興に乗れば二人羽織の茶番も楽しく、さすが子飼いを感じさせる佳き時代の寄席芸を彷彿とさせるに充分で合った。円馬逝きて十四年、名跡復活なるか、興味深いところではある。」

 

待たされていた名跡が、今日、この寄席で会える五代目である。二つ目好圓時代に数回と、真打昇進直後に一度中目黒に来てもらった。苦労人、努力の人、真面目、酒豪、必ず名馬に育つ。

皆さんも応援してほしい。

 

この五代目円馬の師匠三代目橘ノ圓は四代目円馬の門人である。

橘ノ圓は円馬系列と縁の深い名である。初代の橘ノ圓は、二代目円馬(空堀の師匠)の実弟であった。

この初代圓は、後に、あの女音曲師立花家橘之助と夫婦になる。京都に住んだこの夫婦を大豪雨が襲う。濁流に呑み込まれた二人は一緒に昇天した。

昭和十年六月二十九日 圓六十九歳、橘之助六十八歳だった。

(続)

 

 

「目黒のさんまの生まれた日」  外伝

2006,11,19,84回中目黒寄席パンフより

「尺八を拭く」立花家扇遊

目黒のさんまの生まれた日を探していると、当然の事ながら、明治大正昭和に活躍した多くの芸人に出遭うことになる。

立花家扇遊もその一人。

 

この夏、小沢昭一著「小沢昭一的新宿末広亭十夜」なる書物が講談社から出版された。

話はさかのぼる。

昨年六月、新宿末広亭で俳優小沢昭一氏は十日間高座に上がリ、「満員札止めにした奇跡の十日間」という新しい寄席伝説を作った。

その六夜に「尺八の扇遊さん」なる話をした。

この十日間の番組は、主任(トリ)が小三治、その前(膝がわり)が小沢昭一。その小沢さんの前に、高座を務めたのが、わが入船亭扇遊師匠。

 

小沢昭一さん先ず語る。

「入船亭扇遊という方は。なかなかシャープ。将来大物ですよ。」

と今日、中目黒寄席出演の扇遊師匠を讃えてから

「立花家扇遊という方も、以前大阪にいたんですよ。同じ字です。『おうぎがあそぶ』と書いて扇遊、ただ、亭号が違う。こちらは入船亭扇遊、向こうは立花亭扇遊。大阪の吉本という所で、尺八の名人としてずっと出ておられました。

ところが肺を悪くなさいましてね。尺八を吹かなくなってしまった。けれども寄席の看板なんかにも『尺八 扇遊』と書いてある。

扇遊師匠は、やっぱり尺八を持って出て、錦のこういう立派な袋から一本出して、おもむろに磨くんです。竹の外側を磨くだけじゃなくて、針金の先にチョコチョコとついているものがあって、それを通して中もようく磨く。ただ黙々として磨くんですよ。一本磨きますと、また別のやつを出して、また丁寧に磨く。それだけで何とも言えずおかしいんですよ。

ですけどもね、大阪のお客さんは、こういう芸が気に入らないらしいんです。」

小沢さんはかく紹介した。

国宝桂米朝師は上方落語の重鎮であるが、粋だとか洒脱だとか、感情の琴線を微妙に震わす「味」をよく理解する噺家である。米朝師は「上方落語ノート」で立花家扇遊に一章七頁を割いている。

「この人は大阪の芸人で長らく関西の高座に出ていたのだが東京へ移った。見事なつるつる頭で本芸は尺八だが、晩年は余り吹かず、淡々とした喋りと独特の珍芸でよく受けていた。」

と米朝師は扇遊の珍芸の数々を紹介している。

蝿とり、線香花火、へちま踊り

いずれもツルツル頭を効果的に生かしたパントマイム的なものだったらしい。

話が前後するが、立花家扇遊の生い立ちは安藤鶴夫氏にある。

(寄席紳士録第七話「蝿取りは立花家扇遊」より)

「本名を前川宣海。

左様、坊主の出身である。

坊主から剣舞師になった。剣舞師はなにか威厳がなくてはならない。そこで髪を桃中軒雲右衛門の如く、肩まで垂らした長髪にしていた。ところが、あるとき一夜にして雲右衛門級の大長髪が、一本残らず,きれいに抜けてしまった。

これを機に扇遊は剣舞師から尺八に変わり、暇があると、頭にツヤブキをかけたのである。」

「扇遊の芸はだんだん大阪の客にわからなくなった。

同時に、大阪の寄席は全く漫才が天下を取った。

前に東京の寄席の味を知っていたので、扇遊は東京へやってきて、落語協会に入った。

アメリカを相手に戦争がはじまった頃である。

浅草のアパートに、筆子という看護婦上がりの、ぐんと年下の女房と住んだ。そのアパートの住人は殆どが号サンである。扇遊は他人のおめかけさんに取り囲まれて、小父さん、小父さんといわれて羅宇(ラウ・キセルの掃除)を通してやったりしていた。」

この頃小沢昭一氏は扇遊の尺八を聴く。

「その日は空襲警報の最中のせいでしょうか、尺八を吹いたんです。

巧いんですよ。いい音色。

『戦友』という、あの曲を、蕭々と吹いた。

♪ここはお国を 何百里 

離れて遠き 満州の 

赤い夕陽に 照らされて

友は野末の 石の下

戦争がだんだんヌカルミになってきて、ちょっと反戦ぽい歌なんで、ラジオなんかでもやらなくなった曲です。それを吹かれたんです。」

安藤鶴夫氏が運命の続きを語る。

「二十年九日の夜から十日にかけての空襲は、東京ではじめてのいちばん規模の大きな夜間空襲だった。

十日の零時頃から二時四十分までの間に、B29が約百三十機もやってきて、東京の姿を一夜にして変えてしまった。

 (扇遊夫婦より)二年ばかり遅れて扇遊の隣の部屋に、四代目・円馬(昭和五十九年没八十六歳、前回中目黒出演の現円馬は五代目)がこれも大阪から引っ越してきていた。空襲のさなか円馬はおめかけさん五人に付きまとわれて、一緒に上野へ逃げたのはもう方々が火になってからのことである。

誰ひとり、二号を助けに来た旦那はいなかった。

朝になって顔を見合わせたら、アパートの人達はみんな上野の女学校に集まっていた。

扇遊夫婦だけが見えなかった。

門跡様のところに死骸が沢山あるといわれると、円馬は飛んで行ってみた。吾妻橋のたもとにも行ってみたが、みんな無駄だった。

そして、とうとう円馬は大きな声で怒鳴った。

『なんでえ、みんな扇遊じゃァねえか』

ごろごろしている死骸という死骸が、一人残らず、みんな、一本も毛のないつるつるの坊主になっていたのである。」

この後を小沢昭一氏が続ける。

「扇遊さん、いなくなっちゃって、どこへ行ったかわかんないの。

ところが、隅田川の近くの方で、山のように焼死体が積み上げられた一番下から、扇遊師匠、出て来たの。丸焦げで。

奥さんと手を確り握りあったまんま、二人で出てきたの

戦争を憎みます。」

米朝師もこの空襲の日の事を、次のように書いている。

「この人(扇遊)も東京大空襲でなくなった。

たぶん、吉慶堂李彩(中国人手品師)と同じ日であったと思う。道を通行中空襲に遭い、指定の防空壕までゆく途中直撃されたとか聞いた。

講釈の六代目(一龍齋)貞山も同じ日か。

辛い。書いていても本当に辛い。」

(続)